八甲田山雪中行軍遭難資料館に行ってきた。 [雑記]
お盆休みを行動的に過ごしているこんばんは鉛です。
今日は宣言通り、八甲田山に行ってきました。
始めは一人で行くつもりでしたが
いつの間にか父、祖父、妹の三人で行くことに。
ドライバー交代しながら行けるから楽でいいけども。
八甲田山に行くといっても、自分の目的はやっぱり
八甲田山雪中行軍遭難事件の足跡を追うことな訳で
最初に青森市まで行き、タイトルにあるように
「八甲田山雪中行軍遭難資料館」に行きました。
平成16年(だったかな?)に立て直したそうで、とてもきれいな建物でした。
中に入ると案内のボランティアスタッフが誘導してくれて
まずは10分程度の映像で事件の概要を見せてくれました。
実際の事件を、フィクションの映画の映像をまじえつつ
分かりやすい映像だったと思います。
後はご自由に、ということで、意外と広い展示室を見て歩きます。
目立つのが雪中行軍隊が着ていたという服装。
外套はペラッペラだし、足元は藁の雪靴で隙間がたくさん。
試着コーナーがあって、妹に着せてみました。
「薄い割に動きづらいし、こんなんで冬山行くなんて信じられない。」だそうです。
冬場の茨城でも、日によっては寒いかも、くらいの格好で、
この姿で世界有数の豪雪地帯に進んでいったとは…と言葉もありません。
自分はかなり予習していったのですんなりと見て回ることができました。
一方で、一緒に来た家族はけっこう衝撃を受けてました。
やっぱり200人近くの遭難死の資料ってのは重みがあります。
生還者・小原伍長の日記
凍傷防止のため、足を油紙で包み、中に唐辛子を入れたそうです。
奇跡的に凍傷を負わず五体満足で生還した倉石大尉がはいていたゴム靴
当時ゴム靴はいわゆる「ハイカラ」な品で、
東京土産に自分で購入した私物だったそうです。おかげで凍傷を負わずに済んだと。
逆に、正規品の革靴を履いていった士官はすぐ凍傷で動けなくなったそうです。
その他様々な資料が置いてあって、お飾りの記念館なんてものではなく、
まさに「資料館」でした。
ロビーに置いてあった映画「八甲田山」の台本をそこそこじっくり読んだ後
ボランティアの人がまた声をかけてくれて、隣の幸畑墓地を案内してもらいました。
犠牲者199人のお墓が整然と並んでいます。
ボランティアの方の案内はすごく丁寧かつ細やかで
おかげでいろいろなことを知ることができました。
例えば、遭難して死体で見つかった人のお墓と
収容後病院で亡くなった人のお墓では
それぞれ○月○日「死体発見」「死亡」と表記が明確に分けられていること。
兵卒と下士官、士官では墓標のサイズが全然違っていること。
この列はみんな階級が高いので立派です。
一番階級が高く、大隊長だった山口少佐は「正六位」だけど
中隊長小隊長だった水野中尉は華族出身だったのでそれより上の「正五位」で
階級と逆転していること。
生還者は地元に帰ったからここに墓標はないこと。
その代わり、生還者全員の名前を書いた一つの墓碑があること。
その墓碑を作ったとき、まだ3名生存していて、テープカットに参加した人もいたこと。
地元出身の犠牲者の墓標には親族が今も献花していること。
手前から2番目ですね。
などなど。
墓地から一段上がったところには小さなお堂があって
地元の墓石店が協力者を集め、全員分の人形を作り、納めたそうです。
すごく濃密な時間を過ごすことができました。
旅行はこの後も続きますが、今日はここまでです。
次回は銅像茶屋、八甲田山ロープウェー。
では(^.^)/
今日は宣言通り、八甲田山に行ってきました。
始めは一人で行くつもりでしたが
いつの間にか父、祖父、妹の三人で行くことに。
ドライバー交代しながら行けるから楽でいいけども。
八甲田山に行くといっても、自分の目的はやっぱり
八甲田山雪中行軍遭難事件の足跡を追うことな訳で
最初に青森市まで行き、タイトルにあるように
「八甲田山雪中行軍遭難資料館」に行きました。
平成16年(だったかな?)に立て直したそうで、とてもきれいな建物でした。
中に入ると案内のボランティアスタッフが誘導してくれて
まずは10分程度の映像で事件の概要を見せてくれました。
実際の事件を、フィクションの映画の映像をまじえつつ
分かりやすい映像だったと思います。
後はご自由に、ということで、意外と広い展示室を見て歩きます。
目立つのが雪中行軍隊が着ていたという服装。
外套はペラッペラだし、足元は藁の雪靴で隙間がたくさん。
試着コーナーがあって、妹に着せてみました。
「薄い割に動きづらいし、こんなんで冬山行くなんて信じられない。」だそうです。
冬場の茨城でも、日によっては寒いかも、くらいの格好で、
この姿で世界有数の豪雪地帯に進んでいったとは…と言葉もありません。
自分はかなり予習していったのですんなりと見て回ることができました。
一方で、一緒に来た家族はけっこう衝撃を受けてました。
やっぱり200人近くの遭難死の資料ってのは重みがあります。
生還者・小原伍長の日記
凍傷防止のため、足を油紙で包み、中に唐辛子を入れたそうです。
奇跡的に凍傷を負わず五体満足で生還した倉石大尉がはいていたゴム靴
当時ゴム靴はいわゆる「ハイカラ」な品で、
東京土産に自分で購入した私物だったそうです。おかげで凍傷を負わずに済んだと。
逆に、正規品の革靴を履いていった士官はすぐ凍傷で動けなくなったそうです。
その他様々な資料が置いてあって、お飾りの記念館なんてものではなく、
まさに「資料館」でした。
ロビーに置いてあった映画「八甲田山」の台本をそこそこじっくり読んだ後
ボランティアの人がまた声をかけてくれて、隣の幸畑墓地を案内してもらいました。
犠牲者199人のお墓が整然と並んでいます。
ボランティアの方の案内はすごく丁寧かつ細やかで
おかげでいろいろなことを知ることができました。
例えば、遭難して死体で見つかった人のお墓と
収容後病院で亡くなった人のお墓では
それぞれ○月○日「死体発見」「死亡」と表記が明確に分けられていること。
兵卒と下士官、士官では墓標のサイズが全然違っていること。
この列はみんな階級が高いので立派です。
一番階級が高く、大隊長だった山口少佐は「正六位」だけど
階級と逆転していること。
生還者は地元に帰ったからここに墓標はないこと。
その代わり、生還者全員の名前を書いた一つの墓碑があること。
その墓碑を作ったとき、まだ3名生存していて、テープカットに参加した人もいたこと。
地元出身の犠牲者の墓標には親族が今も献花していること。
手前から2番目ですね。
などなど。
墓地から一段上がったところには小さなお堂があって
地元の墓石店が協力者を集め、全員分の人形を作り、納めたそうです。
すごく濃密な時間を過ごすことができました。
旅行はこの後も続きますが、今日はここまでです。
次回は銅像茶屋、八甲田山ロープウェー。
では(^.^)/
2017-08-15 22:56
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コメント(4)
ああ、重い事実に言葉もありません。
不自由なく暮らしている事に感謝しないといけませんね。
by 親知らず (2017-08-16 00:19)
冬場のマンション水洗いで長靴じゃ寒いとか言ってる場合じゃないなこりゃ。
そんな薄着だったとは、さすが旧大日本帝国軍だわ(^_^;)
by pn (2017-08-16 09:01)
>親知らずさん
本当に想像を絶する出来事です。こうして施設を作って、100年後の今でも伝え続けていることがとても意味を持っていると思います。
by 鉛 (2017-09-04 00:10)
>pnさん
冬場のマンション水洗いは、十分に凍える仕事だと思います。お体お気をつけてください。濡れたままで居るのが一番まずいと展示にも書いてありました。
by 鉛 (2017-09-04 00:11)